長崎に80年前
原爆が落とされた
被爆者救済のため
医療費はすべて
無料となった
長崎人として
その道義は理解できる
しかし、あれから
80年が経ち
それに群がる
医療関係者
いたことは
いや、今でも
いることは事実だ
自己負担金がないからと
・たくさんの薬を出す
・高額な新薬を試す
・検査を必要以上にする
被爆された人たちを
さらに頻回のCT検査で
被爆させている
ボクは早くから
疑問を感じていた
一方で、患者側には
「病院依存」「薬依存」
生み出した
私の父もその
被爆者手帳を持っていた
生来の性格もあったと思うが
何かあればすぐに病院に行き
処方された薬は
真面目にのんでいた
インフルエンザのワクチンも
家族で一人だけ毎年打っていた
恥ずかしい話だが・・
シップをたくさんもらっては
部活で肩や足を痛めた
孫たちに配っていた
ある時、父に言った
「それ、税金だぞ
タダの意味を
はき違えているぞ」
大腸がんの手術から
死ぬまでに10回も入院した
毎度のイレウス(腸閉塞)
その都度、父に言った
・もっとよく噛んで!
・消化のいい物を食べて!
・長時間座ってテレビはよくない!
・ウォーキング!
・口を閉じて鼻呼吸!
・湯船に長く浸かりなさい!
そして
「どうして毎回そうなるのか?
反省して正しなさい!」
でも、いつも
糠に釘だった・・・

健康になるための勉強、
全くしない父だった
なぜか??
病院に、医者に、
どっぷり依存していたから
何度受診しても
どの病院に行っても
タダ、無料だったから
だから、自分で考えようと
しなかった
何かあったら、医者に
なんとかしてもらえる
依存的思考
しかし、憎めない父
放ってはおけず
大事な医師との面会には
病院に連れて出向いた

これは虹ヶ丘病院、だったなあ~

これは、もう
どこか、何をしているのか
回数が多くて忘れた・・・
奇跡的に回復しては
私のアメブロのネタに
させられていた(笑)


昨日、同じく
被爆者手帳持つ母親を
あちこちの病院に送迎して
くたびれているお客様に
アドバイスした
「娘として母親に諭すべき時です
症状と年齢を考えた時、
それはすぐに受診する必要はない
勇気を出して、そう伝えるのです
家で、自分で、家族で、
できることはありますよ」
目が、皮膚が、鼻水が・・・
不都合を感じて
病院に連れて行ってほしいと
親に言われることに対して
言われるがままに動いて
自分の時間を搾取される
無視しろ、
というのではない
お母さんは不安だから
そうお願いしている
それが確かに医師に
みせるべき状態なのか、
それを家族がまずは
冷静に見極めることが大切
そのためには
子供の立場が
親の病気だけではなく
健康に関心を持つことだ
今やネットで
なんでも
調べられる時代
家族もまた、親を
病院に丸投げするから
そうしたことになる
家族で自宅と病院の
往復を繰り返しているのは
自分たちにもできる
ことはある!という意識と
どうしてそうなったのか?
原因を見出す見識に
欠けているからだ
最後に・・・・
長崎県人なら
絶対に知るべき
尊敬すべき医師がいる
秋月辰一郎氏(1916~2005)だ
1945年、浦上病院で被爆され
自身も放射能に苦しみながら
人命救助に尽力された
自分も原爆を受けて
そう長くはないと思っていたが
享年89歳と長生きされた
当時の惨状を
細かく記しているのが

この本の135ページに
こんな一節がある
爆弾を受けた人には
塩がいい。玄米飯に
うんと塩をつけて握るんだ。
塩辛い味噌汁をつくって
毎日食べさせろ。
そして、甘い物を避けろ。
砂糖は絶対にいかんぞ」
当時の浦上病院(今の聖フラ)は
運よく、玄米、味噌、海藻、塩の
備蓄倉庫も兼ねていた
その結果、ほとんどのスタッフが
被爆の後遺症に苦しまずに済んだ
14日日曜日に
塩の勉強会をする
モチベーション
それを持ったのは、
この本を購読したから
そして自分が
「長崎人」だからだ!
いつまでアメリカに
追従するのだろう・・・
アメリカの医療を
信じて疑わないのだろう・・・
アメリカに
落されたというのに・・・
早く、目を覚ませ!!

あっ、もうあっちの世界に
行っているんだった(^_^;)














































